2011年6月4日土曜日

李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝

今、全仏オープン2011女子決勝の試合を見ています。実は、この文章は、リアルタイムで、つまりWOWOWで試合を見ながら書いています。

WOWOWには、試合前に、急いで加入しました。李娜(Na Li)という、中国人(アジア人)が初めてグランドスラムで優勝するかもしれない決勝戦を見たかったからです。インドなど、伝統的にテニスの強い国がアジアにはありますが、グランドスラムでの優勝は、今までありませんでした。

Na Liが、グランドスラム決勝という場で、どんな戦いを見せてくれるのか。実は、Na Liの試合を見るのは初めてなのです。

第1セットでは、Na Liのクラシカルなテニススタイルが、スキアボーネの眩惑的で多彩なテニスを凌駕しました。Na Liは、惑わされず、しっかりと、正攻法で戦っています。そして、第1セットは、サービスブレークをされる心配がほとんどないまま、セットを取りました。

第2セットも4-2とリードしたNa Liは、しかし、ここから、プレッシャーと戦い始めます。Na Liは、第2セット4-2から、スキアボーネのサービスでブレークチャンスをモノにできず、自分のミスでこのゲームを落とします。そして、その後もフォアハンドのミスを重ね、スキアボーネにじりじりと追いつかれていきます。

解説の神尾米さんが、これがグランドスラム優勝のプレッシャーだと説明しています。もちろん、グランドスラム初優勝のプレッシャーは計り知れないものでしょう。しかし、私の目には、それだけではないように映ります。もっと大きなものがNa Liを苦しめている。Na Liはネットの向こうのスキアボーネではなく、もっと別の、何か大きなものと戦っているように、私には見えたのです。

この試合は、アジア人がグランドスラム決勝で戦い、初のグランドスラマーになるかが話題の焦点でした。でも、果たして、それだけなのでしょうか。

この決勝戦の意味は、もっと大きいように思います。アジア人が、欧米が100年以上も中心であったたテニスというスポーツの、しかもその中心となるグラウンドスラム大会の決勝で、観客を含めた歴史と伝統という重みと戦い、その重圧を乗り越えることができるかどうかを試される一戦なのです。

第2セット後半に入り、スキアボーネがNa Liに追いつき始めてからは、大半の観客がスキアボーネの応援です。第2セット後半に入り、スキアポーネがポイントを取るたびに、大歓声が起こります。

パリっ子は、その歴史的背景から伝統的に判官びいきで、優勝経験のないNa Liへの応援が、前年度の優勝者であるスキアボーネをこえていると、試合前にレポートされていました。それが、手のひらを返したように、スタジアム全体でヨーロッパ人であるスキアボーネを後押ししている。残酷なヨーロッパの歴史が、観客すべてとスキアボーネを飲み込んで、Na Liに襲い掛かります。

第2セット後半に入り、ミスを繰り返すNa Liの苦悩の表情は、思い通りのプレーができないことに対する怒りだけなのでしょうか?長い歴史を通じて、アジア人がヨーロッパ勢と孤独に戦ういらだち。

多くのプロスポーツは、別の側面から見ると、貧しい人たちが一獲千金を夢見て、這い上がる、のし上がる手段の一つです。ボクシングや野球で黒人選手が多いのは、偶然ではありません。裕福になりたいという野心が力になるメジャースポーツの中で、しかし、テニスは少し違います。かつてより貴族のものであったテニスというスポーツ。その伝統は、脈々と世界のテニスシーンの背景に流れています。全仏オープンの観客は、貧しさから這い上がるサクセスストーリーを求めて、ローランギャロスに集まるわけではない。特権階級のブルジョアな悦楽の香りが、ローランギャロスには漂っています。ボクシングの世界チャンピオン戦のリングとは異なる空気が、グランドスラムのセンターコートを支配しています。

テニスは、もういいや、負けてもいいやと思ったら、こんなに楽なスポーツはありません。偶然に勝つということがないスポーツです。負けようと思って、たまたま勝ってしまったということがないスポーツです。Na Liが、観客という形で具現化された欧州の歴史の重みの中で、精神的に追い込まれ、瞬間的にそんな表情を見せるのが心配です。

Na Liには、優勝してほしい。でもそれは、自分がアジア人だから、アジア人に初めてグランドスラムで優勝してほしいということではないのです。

成長期に入ったアジアは、悲しい歴史を少しずつ乗り越え、企業の力や団体の力で、世界の中で成功した事例を持ちはじめてきました。しかし、テニスは、団体で戦う競技ではない。どれほど、中国が組織的に選手を育成したとしても、団体競技ではないのです。

テニスは、どんなに精神的に追い詰められても、コートの上でただ一人、数時間戦い抜く者が勝利を勝ち取る競技です。その間、コーチとも、友人とも、家族とも苦しみを分かち合えない、孤独で過酷なスポーツです。

今、Na Liは、スキアボーネではなく、欧米の伝統と、それに押しつぶされそうになる自分自身と戦っている。Na Liが、ヨーロッパのスタジアムというアウェーだけではなく、テニス競技そのものとその背景にあるヨーロッパの歴史に対するアウェーを感じているとしても、それは少しも大げさなことではないのです。

個人競技であるテニスにおいて、あらゆる伝統の重さを跳ね返し、欧米の文化の中心で異文化人であるアジア人が光を放つ瞬間が、今、目の前に来ようとしている。しかも、パリという、ヨーロッパの文化と歴史の象徴の街で。

私は、その瞬間を見たい。Na Liには勝ってほしい。

この気持ちを持つことができるのは、私がアジア人だからです。その歴史を肌で知っているからです。Na Liの感じる重圧を理解し、分かち合いながら応援をすることの意味が、そこにはある。そんな時間を持つことを、私は幸せに感じます。

今、コート上は、第2セット5-5です。Na Liは、明らかにグランドストロークで、ラケットを大きく振りきることができなくなっています。フラット系のグランドストロークでは、ラケットを振りきれなくなることは、何よりも怖いことです。ボールを制御することができなくなるからです。

どんな形でも良い。第1セットのような、ストロークでクロス、逆クロスにエースを取るようなきれいな形でなくてもよい。格好良くない勝ち方であっても、Na Liに勝ってほしい。背中にのしかかる巨大な伝統の重さを乗り越えることが、Na Liが、応援するすべてのアジア人が、なによりも望んでいることなのです。

第2セットの4-2からずっと腕が縮こまってしまってバックアウトとネットを繰り返していたNa Liが、5-6の0-15から、やや長いストローク戦で、グランドストロークのエースでポイントを取りました。何ゲームかぶりに、腕がしっかり伸びたフォアハンドストロークでした。そして、この瞬間に、Na Liの表情が、少し穏やかになったように見えました。もしかしたら、彼女自身がテニスという欧米の伝統の重圧から抜け出し、アジア人としてではなく一人の選手として、戦い始めた瞬間だったのかもしれません。

Na Liは、5-6から自分のサーブをキープしました。彼女の表情は、自分自身を含めたあらゆるものに対して怒りを感じながら、しかし、あらゆる怒りを受け入れた、不安のない表情になりました。Na Liが、テニスという伝統の中に飲み込まれ、テニス史上の一人のプレーヤーとしてプレーし始めています。今、Na Liは、アジア人ではありません。長い全仏オープンの歴史の中で、一番最後に並ぶ優勝に最も近いプレーヤーです。

今から第2セットのタイブレークです。Na Liの表情は、背負う多くのものから開放され、今はとても穏やかです。大丈夫です。Na Liは、このタイブレークを取ることができます。優勝できると思います。

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