2013年7月2日火曜日

Wimbledon 2013 李娜とクルム伊達:アジア人のテニス

シードダウンが続く中、第6シードの中国のNa LI(李娜)が1週目を勝ち残った。このところグランドスラム大会で比較的早いラウンドで敗退することが多く、あまりプレーを目にする機会がないために2013年のウィンブルドンの李娜を占うことは私にはできない。

以前も書いたことがあるかもしれないが、クルム伊達公子と李娜には、奇妙な共通点を感じる。いや、むしろ、二人のアジアのテニスプレーヤーという点では、必然的な共通点なのかもしれない。

それは、二人ともがテニスが好きで、テニスを楽しむためにプレーしているのに、勝てば勝つほどプレーとは直接は関係がないものと戦わねばならないという事だ。

戦う相手は自分を取り巻く環境であり、本来は自分のよりどころになるべきものだ。マスコミや国民という人々であり、協会や国という組織の存在だ。

スポーツは個人のものであり、組織や国とは独立したものだなどという野暮なことを言うつもりはない。このグローバル化された世界の中で、ビッグスポーツはあらゆるものが有機物のように絡まって成立している。それはまるで、巨大なじゃんけんだ。選手の活動を経済的に支えているのは、ファンや国民ではなく、スポンサーだ。しかし、そのスポンサーは、国民に商品を売ることを生業にする。大会運営母体も、チケット販売や放送権がなければ大会を運営できない。結局、選手は、国を背負うという意識があろうがなかろうが、国民の声援に応えなくてはならない。

李娜は、全仏オープンの優勝インタビューで、スポンサーや大会に感謝の意を述べたが、国に対していの感謝を口にしなかった。また、べつの機会には、自分は国のために戦っているのではないと言い切った。それは、李娜が大きなものを勝ち取った瞬間に、別の大きなものと戦いを始めなくてはならないことを意味していた。

1980年代に、チェコ・スロバキアの二人の巨人、イワン・レンドルとマルチナ・ナブラチロバは自分の国を捨てた。後を追うようにハナ・マンドリコバが国を離れ、ヘレナ・スコバとミロスラフ・メシールだけが残った。スコバは母親(父親?)がチェコのテニス協会の委員であり、メシールは国に対して不満がなかったというだけだ。

錦織は日本国籍の選手として登録されているが、中学生から活動拠点を米国に移している。有名なニック・ボロテリーの門下生だ。ニック・ボロテリーのテニスアカデミーには、世界中から有望な若者が集まる。それは、モンゴルや欧州から日本にやって来た力士を思い出させる。相撲のウィンブルドンがあったとしたら、日本人はモンゴル選手の優勝をモンゴルの誇りだというモンゴル国民を、どんな目で見るのだろうか。

結局、テニスという個人スポーツは、やはり個人のものなのだ。国民やその国のテニス協会(もちろんマスコミも)は、自国の選手がトップランカーになれば、それでよいではないか。大いに誇りに思えばよい。しかし、その選手を何らかのコントロールしようとしてはいけない。与えるのは尊敬の気持ちと純粋な声援だけでよい。それに見合うだけのものを、選手たちは十分に与えてくれている。それ以上を求めることが、なぜ許されようか。

42歳になり、スポーツ選手にとって最も価値のある肉体の若さを失っても、クルム伊達はニコニコしながら大会に挑み続ける。それは、彼女がそれ以上のものを勝ち得たことを意味している。

李娜はきっと、クルム伊達の後を追いかける。李娜のウィットに富んだインタビューの裏には、眉間にしわを寄せた姿がいつも見え隠れする。彼女はいまだに、テニスコートのネットの向こう側のプレーヤー以外の多くのものと戦っているのだ。彼女が明るいキャラクターである分だけ、眉間のしわに重さを感じる。

李娜がクルム伊達と同じように心から楽しむ表情でテニスコートに立てるのはいつのことだろうか。その時、彼女は、何を得て、何を失っているのだろうか。

⇒ 李娜(Na Li)の全仏オープン2011決勝


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